生きている人と死んだ人

むかし私は朝ごとに入念に変装してわが家を出るのを常とした。その日の天気にもよるが三時間近くかかった。(省略)

私はしばしば女になる犬になる草や木になるくらいだから、かえって尋常の人になるには時間がかかるのだ。(省略)

ついでに私は半ば死んだ人だ、この世の人ではないから朝ごとに変装するのだ、彼らも気はついてはいないものの半死半生なこと私の仲間ではないかと思ったが、これは尋常の人に言うわけにはいけないから詩人田村隆一なら言っても怒るまいと言うと、果たして田村は賛成してくれていま生きている男女の半ばは昔なら育たなかった者どもで、哺乳びんの中で育った者どもだ。

してみればあの世とこの世の区別はない。この世はすでに半分あの世だというので二人は大笑いした。

以来私は苦労して変装するには及ばないのではないかと、このごろすること少なくなったのである。

も〜読んでオレ涙目ですよ。「魔性の子」の、ここではないどこかを追い求める広瀬くんにはアイタタタと思ったのですが、でもどこか疎外感を持つ気持ちに感情移入しやすい。

私が世間にあわせて泡沫の会話をすることに苦痛を感じているわけじゃない。土曜日も嬉々としてボーリング飲み会行ってきたし、私の疎外感なんてそんなもんです。

その点、夏彦もふてぶてしくて、あんまり深刻じゃないみたいだけど、でも、最後の文で楽になった表現の気の緩み具合で、やっぱり奈落のそこを見た感じがちらりと見える。

広瀬君は泰麒ほど異端児になれなかった。でも、夏彦はひょっとして、夏彦の国があっても良かったんじゃないだろうかと感じさせるぐらいの疎外感。

夏彦の国じゃなくて単に「死んだ人」としか言えない、どこかにあると夢見るんじゃなくて、いずれ行く身近なところを設定する現実感と、でも身近なところにあるはずなのに決して人と気楽に交われない絶望感あったんだろうな。

そんだけ。

この章の「その収入にふさわし」いかっこうをして、「無用なあなどりを防ぐのも人のため」という文にも深くうなずいたりして。

生きている人と死んだ人 山本夏彦 文藝春秋 1991