フライデーあるいは太平洋の冥界

もにょった話を続けて書くのは気が引けるが、貸し出し期限が明日までなのでしょうがない。

私は素朴な実存主義者ではないかと思っている。死とか考えてないけど、自分の中の感情第一主義だし。

私の中にある思いは全肯定。それを世間が認めないのなら、世間のほうが間違ってる。

幸い私の感性は世間のルールとかち合わない。ロリや快楽殺人者じゃなくてほんとに良かった。権力の犬とお呼びください。

それで、素朴に人生は自分の中で充実感が生じるように過ごしているのだが、充実感って何?と突きつけてくるのがこの本である。

無人島でロビンソンが規則正しく時間を刻む水時計を大事に思ってたのに、水時計を止めてそのことで開放感を得る。

水時計を動かすというのは、全世界と共通の時間を共有すること。それを止めるに至り、独自の無人島ルールに従うことになる。

それをアイタタタと思うが、しかし、無人島で世間とのつながりを求めても確かに無駄。

もしかして、私の充実感はちょっと立場が変わったら価値がなくなるようなものじゃないか、疑問が浮かぶ。

私の充実感は私の中から生じているんじゃなくて、世間様とのつながりによって生じさせられた代替可能なもの?

他人様と生活する以上、欲望だって他人の影響を受けるのは仕方がない。ロビンソンのように無人島で暮らすことなんてありえない。

まっさらの状態の充実感なんて考えようがないし、この話は最後島民が2人になることに救いがあるし、他人とのつながりを肯定する仕組みだ。

しかし、世間ルールの中で自分を生かす道をあくせく探すのではなく、一度ちゃぶ台を引っくり返してみても、案外悪くない世界が広がっていて今以上に順応しちゃうかも、な〜んて妄想した社畜でした。

フライデーあるい太平洋の冥界/黄金探索者 トゥルニエル・クレジオ 河出書房新社 2009