蛇を踏む

蛇を踏んでから蛇に気がついた。秋の蛇なので動きが遅かったのか。普通の蛇ならば踏まれまい。

蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。

「踏まれたらおしまいですね」と、そのうちに蛇が言い、それからどろりと溶けて形を失った。

煙のような霧のようなもの曖昧なものが少しの間たちこめ、もう一度蛇の声で「おしまいですね」と言ってから人間のかたちが現れた。

「踏まれたので仕方ありません」今度は人間の声で言い、私の住む部屋の方角へさっさと歩いていってしまった。

さすが芥川賞受賞作、夢のような幻想が、しかしはっきりくっきり起きているときのような明確さで書かれています。

蛇の世界に入らないかと誘われるが拒否る話。

蛇の話、昔誘われたけど行かなかったことを後悔する人の話を聞くと、「ここではないどこか」に思いをはせることのない私でも行ってみたくなる。

しかし、この主人公はこの世に執着してなさそうなのに、行くといわないのである。蛇のこと悪く思っていないようなのに、なんの隠喩だろう。

ちなみに主人公の曽祖父は2年間出奔して鳥と暮らしていたそうだから(曽祖父の言うことを真に受けたらですが)逡巡を表したもの、勇気をもてない人のあり方が書かれたわけではない、よね。

主人公は「蛇の世界なんてない」と言ったことをついに言ってしまったと重く受け止めているが、私は何がそんなに重要なのかわからなかったし、文学は難しいぜ。

でも、世界の空気が澄んでいて、分からないなりに読み応えがありました。

今なら蛇の世界に行くのにというニシコさんの括弧なしの一気読みのせりふも好きです。

蛇を踏む 川上弘美 文芸春秋 1996