’89

俺、ときどき「自分がアメリカ人じゃなくて本当によかったな」って思うことってあるんだけど、「今の日本」というものは、結局「今までの日本が持っていたもののある一つの結果」でしかないじゃない。

そのほかに忘れさられてしまった、様々なヴァリエーションというのは、日本の歴史の中にゴマンとあるんだから。

だからさ、「いつからそんなことになったんだよ?俺そんなもん認めないよ、だってそもそも、この現実に至る前には、これこれこういう現実だってちゃんとあったんだから―」って言う、過去からの提示ができるじゃない。

俺に言わせりゃ、「どんなもんだって日本の中にある」し、「今がおかしいのは、その後の選択の間違いである」で、「ゆえにお前らはバカだ」なんだもの。

でも、アメリカにはそんなもんなんにもない。ヘンなやつでも、「個人の自由」で認められて、でもそいつは永遠に「ヘンなやつ」のまんまだもの。

「俺は別にヘンなやつじゃない、その証拠に―」って提出できる根拠がないんだもの。

‘89は「関係」を書いた評論である。20年前、人々がお互いの存在を視野に入れなくなったとき、人々が置かれた状況とそのつながりを提示した。

一時期、宮台真司が日本人の関係に対する感受性の鈍さをぶーたれていなかったっけと思いつつ、橋本も別の本ではぶーたれたような気がする「関係」である。

今のところ’89は「関係」をもとうとしていないことがどれだけややこしい事態をまねいているか、遠まわしに「関係」を結ぶことを自覚させようとしていると思っている。

現在もヨーロッパ化はしていないので、古びていない。

’89は読むごとに面白い場所が違うし、感想がバンバン変わるのでちょっと読みに自信がないが。いつも自信ないけど。

で、今私が’89で一番面白いと思っているのが、冒頭の文である。

自分がまともであると証明できると思うのも面白いが、その証明方法を示しすのも勇気のいることだ。

過去から現在を演算する、歴史を学ぶ大切さをここまで見事に言い表した文はなかなかない。

確かに過去に例にないことはただの妄想、机上の計画で他人を説得するのは難しい。

また、私は、人を説得するなら、論理、現在起きる確率が多いことを知ることが大切、と思っていたが、過去の論理から現在を否定する発想はなかった。

‘89は読むたびに発見がある。

’89 橋本治 河出文庫 1993