カトリックに興味がある
高校生のとき国語教師が一番初めの授業で出したお題が「やさしさとは何か」。
私は「相手のことを考えて行動すること、または何もしないこと」と書いた。
それは必ずしも相手の意に沿うことではなく、嫌われることもある。
また、ためになるつもりであっても、見通しが悪く悪い結果となることもあるかもしれない。
蛇の誘惑で「知恵の実」を食べてしまって以降、人はあたかも神のように善悪の区別をするようになります。でも人のなす区別は、神のなす区別と違い、必ず間違います。
にもかかわらず人は、区別なくして生きられません。それが原罪です。(中略)
構築あるいは人のなす区別は、必ず間違っているのに回避できない。まさに不可能なのに不可避。
ここでこの引用をするのは少しずれるかも、とは思うんだが、良かれと思ったことが決して思い通りの結果にならない不思議がある。
いまのところは不思議と表現するのだが、自分が間違っているかもしれない恐怖とどうつきあうのか。
原罪という言葉には、間違っているかもしれない、じゃなくてそもそも間違っているという前提に立っているような気がする。
内田のたっつんなら、自分が間違っていると思って行動することで、視野が広く保て、失敗の芽に速く気がつくことができるといいそうなメリットも確かにある、
でも、そんなの副次的な長所で、自分が間違っていることを常に引き受けるとなる暗い気分とどう向き合うのか。
暗い気分なんて明るい気分の反対で分かりやすいけど、原罪にはそれとは違う人生に対する割り切れなさがもやもやと漂っている。
割り切れなさとともにある苦しい人生をつらつらと思う。
この割り切れなさは別のはっきりした表現がある気がして、諦念という言葉でもないよな、finalventさんのキリスト教関係の記事を興味深く追っている。