橋本治という考え方

ある一人の日本人が「私にはそんな非難を浴びせられる覚えがない」と言っても、相手は、「日本人であるその人」を、「日本人」であるゆえに非難しているのである。

ある一人の日本人が「私にはそんな非難を浴びせられる覚えがない」と言うことは、実は、「私は日本人ではない」といっているのと同じことなのである。(中略)

まず、「日本人」という立場があって、その中に自分というものがある―それが当たり前だと思っている人たちの前で、当の日本人は不思議なことに、「日本人」というくくりを抜きにして、いきなり「自分」がある。(中略)

「日本人の立場」と「自分の立場」がイコールだから、「日本人の立場」を外国人に説明して、「それは分かったが、あなた個人の考えはどうなの?と問われると、なにも答えられなくなる。

だから、「日本人には自分がない」と言われてしまうが、その逆もある。

「自分の立場」を説明して、「あなたの考え方は分かった。それで自分の立場はどうなの?」と問われてしまうと、もしかしたら、もっと分からなくなるからだ。

ふ〜長い引用だったが、肝はこの後

日本人にあるのは、「自分の立場」と、自分に同調してくれている自分とよく似た他人から作る「自分達」という立場だけなのだ。

「いま私たちが考えるべきこと」は少し物足りなかったが、「自分」と自分の属する集団、「私たち」の関係をこう切り取られると考え込んでしまった。

確かに、自分が所属する集団のなかでも、意見の合わない人を含んで「私たち」とはいわない気がする。

国籍というのは自分が選んで決めたことではないが、だからといって意見の合わない人と一体感を持たず、同じ利益を追求している集団に属しているというのはずるいかも。

雑誌「広告批評」3月号で、橋本治オバマ大統領の就任演説を認めていた。

一部の人たちが起こしたことではあるが、国民一人一人にも責任がある、と。

(手元に資料がないのでいい加減。せっかくかっこよくきめようと思ったのに)

確かに民主主義の国で人に全部責任を押し付け、自分に全く落ち度がないということはありえない。

自分と意見の合わない人と集団の中でどう「私たち」を成り立たせるのか。

集団の外を常に意識させる環境がない限りなかなか成立が難しそうではありますが。

橋本治という考え方 橋本治 朝日新聞社 2009