意見はどの程度受け入れられたいか

「非属の才能」で山田怜司は他人とうまくやっている非属の人の例として、さかなクンを挙げた。自分の世界が他人に受け入れられるものだったら、いい。

自分の世界をいかに受け入れられるか工夫する人生もいいかも。

ところで、私は論理の飛躍をほほえましく思う(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20090226/t)。

けれど、飛躍を飛躍のままで置いていこうとする精神は嫌だ(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20090320/t)。

子供のすることは、細部のある部分だけが周到で、残りの部分は“何を考えているのか分からないぐらいアイマイでぼんやりしている”ものだ。それは子どもの現実認識が、そういうものだからだ。

その人の行為はその人の世界観の反映で、世界観が曖昧なら、その人のしでかした行為も、それを反映して、十分にズサンで曖昧なものになるだろう。
          宗教なんかこわくない! 橋本治

私は世界の一員でありたいから、世間一般の常識を踏まえて、人を説得させる文章を書きたい。

一方で、世界の住人がそんなに論理だっていないことを受け入れている。

もし仮に、私がここで“世の中の矛盾”というものを全部指摘できたとして、そしてそれを諸君らが、「そうか」といって呑み込んだとしたって、おそらく現実は何も変わらないだろう。
              僕らの最終戦争 橋本治

他人が自分と違う人生を送り、重ならない部分、つまり私の論理があなたに通じない部分がその人らしさであると思うので、その私の意見が通じないことを認めたい。

(私があなたの意見を受け容れられないのも認めてな。)

でも、お互い、分かり合えない部分があるとそれが時々寂しくなる。でもそれは、耐えなければいけない種類のものなんだろうな。

結論として、自分の意見を受け入れられたらラッキーぐらい。受け入れられるように頑張ります。これから論理にするという気概がなくもない。

実のところ、ハブにされるのが嫌で、今の今まで自分の意見を表明する勇気がなかったのだが。

一人でいろいろ考えた期間が長く、発酵した文章を書いている自覚はある。