ケ・セラ・セラ

子ども君、朝起きたら、顔を洗う僕の足元をまとわりついたりして、ほっとして涙が出そうです。

居間に小さな机を置いて、土曜の朝、子ども君にテレビの番をさせつつ、ブログ更新しようかなとも思ってましたが、いや、子供が起きていない朝早くに読書する机が欲しいはあるけど、どうしたもんか。今の時間が大切です。


で、なにを置いても代わりのないものってありますか。譲れないもの。

それは、家族で会ったり、健康であったりするんでしょうけど、でも、何となく、大病を患った身には、いずれ失うものぽくも思う。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

ニーバーの祈りが僕の隠れモットーです。

変えられないものをそうとわかる賢さなんて、神様でないとわからない。

静穏に受け入れようとしても、心の動きは制御できない。

悶え苦しむことだけしかできない、でもそれが私の人生で、それを味わうことこそ、私だけの特権だろう、

と、まだ、絶望していないから言うことができます。

とティリヒの勇気はどこからともなく湧いてくるっぽいのにも関心はあるけど、一回全集(?)あとがき読んで放り投げたんだよなー

トラヤンも読みたいんだよなー

やっぱり不条理と向き合った経験を語るなら宗教本が一番だよなー

と、不条理は私のテーマです。


と、昔の小学校から肉体労働で働くんと比べたら、我が身のありがたさが染みるやろ、と言ったら、今は21世紀の日本だし、と返されたんす。

感謝の念て、当たり前やと思ったら湧いてこないというか、当たり前が何と思うかってどうでっしゃろ?