諦念

Yuki Sato (佐藤ゆき) @yuki_sat
まさに。多くの可能性があり過ぎて、何かを選択することが怖かった20代。30で会社辞めてベルリンに来て良かったのは、選択肢が大きく狭まったこと。残された可能性に賭けざるを得なくなった。

妖奇士の主人公が色気がない点についてジーと考えていて、この人、ここではないどこかを求めている感が引っ掛かるのか。

と、高知新聞で諦念とあって、小さな頃からコンプレックスがない万城目流「明るい諦念」http://bunshun.jp/articles/-/4433とかも読んで、諦念かー

大辞林で諦念とは、「道理を悟って迷わない心。また、あきらめの気持ち」だそうです。

20年弱前、僕のテーマでもあった。

橋本治、よく気が狂わずにすむよなー

現実を受け入れる気持ちとここではないどこか。

人生に取り返しのつかないことがあるのかがテーマの僕だけど、考えあぐねているのは「死」についてである。

死は取り返しがつかない。可能性がなくなることを、腑に落ちているわけではないけど、人を殺したことは取り返しがつかない、どうあっても変わらない現実は受け入れるしかない。

現実を受け入れたとき、迷いもないところに、受け入れたときの迷いのなさは信念となり、色気になるんじゃないのかと言う仮説を立てているのだが。

迷いがないことは腹が据わっていることで。

いや、マジで人を殺した人を知っているわけじゃないけど、ここではないどこかを仮定する自分のうわつきも自覚している。

現状の受け入れと、ここではないどこかを求める気持ちって、両立可能なものだとは思うけどさ。

道理を悟る、と、諦めって、距離があるよね。

僕が仕事に燃えている点と仕事ができない点の乖離は、先輩にルサンチマンを疑われた気配があったような、「やる」ことが楽しいので結果は求めないというか、

偉くなるには会社を変えていくビジョンの達成としての出世であり、それがない自分の限界は認めるしって、酸っぱい葡萄かなー

あ、ずれたか。

現実の受け入れって、色気になるというか、地に足の着いた感、僕は黒い気持ちになりたくないだけなんだけど、なんか、どんな状況になっても良かった探しはできるのではないか、人生に楽観的なんだよな。

と、DVD見ていたら、CMで高校生の恋愛かー僕、相方好きだけど、唯一無二とは思っていない、代わりのある人なんだよな。

病気して、死ぬ可能性、入院しっぱなしとかが本当で、今は、かりそめ感で生きている。

人生に選択肢がいくつもあって、過去は変えられないけど、

過去に選択肢がいくつもあって、かりそめの自分で、未来だって選択肢はいくつもある。絶対はない。

35の思想よのう。

絶対はないから、人はどんな残酷なこともできるけど、人は人、自分の生き方を選べると思うのは、追いつめられたことがないからである。

どっちをとっても大事なものを失う選択を突き付けられたことがないラッキーさはあって、どこまで逃げ切れるものなのか、

でも、大事な人ができたと思えた、永劫回帰しても良いと思えた過去があったら、後がひどくなっても、一瞬でも夢見れた人生をくれてありがとう、と思えて、人生の受け入れができるのか。