刺激と反応
「現代のヨブ記」のラビは子どもが早老病?だかで早死にするから、きれいごとを言うのも受け入れられたっぽいことを書いていたような、
宮台先生は非常時に当てになるやつかどうかを人を見るときに気にしているらしいというか、
僕は自分自身を信頼していないというか、いざとなったらいぎたないであろうというか、
いや、僕はきれいごというのが好きだな困ったなあと思っているというか、でも他にいいようもないし、の話です。
僕はあまり汚い真似をしたくないなあと思っているし、そういう真似をするぐらいなら多少の損を被ってもいいと思っている。
普段はまともな人がクレイマーになるとき対応をするのが大変な公務員(ぽいことを言っていたような山本一郎氏)、
スマートに生きていたい願望があるというか、必死になるほど追い込まれたことがない幸運である。
いや、某無職の必死になりたくない感、優雅さには負けまくるけど。
きれいごとを言いまくっている自覚はあります。
プラネテスのテレビ版で、きれいごとばかり言っていた田辺さんが、空気のない月で、空気ボンベ壊れて、意識を失っているテロリストのボンベ欲しいよね、と追い込まれたことがあった。助けの当てはない。
僕はプラネテスはその回を含めて3,4回しか見ていなかったし、どういう積み上げをしたのかわからなかった。
その次の最終回は1年後で(だったかな)田辺さんは障害が残っていた。
取り乱していた前回、心境の変化は描かれなかった。
その心境は分からなくても、僕としてはどっちに転ぶか分からないし、どっちに転んでもおかしくない、もし同じような場面におかれたとしても再現性のないことに拘らなくてもいいのかなって感じだった。
でも、結果の障害を持ったことに対してすがすがしいのは引っかかった。
んで、引っ掛かり其の2、死ぬことと見つけたりで、毎朝、死ぬことのシミュレーションやってるの、主人公的には有効だったよね、
其の3、別に死んでもいいと思いつつ、夢の中で殺人鬼に追われて必死に逃げているというか、極限状態で自分の欲がどう出るかって平常時から判断はできない。
平常時の方針が極限状態の方針と違うのは責められることなのかなあ?
キレイごとを言いまくって、極限では違うって情けないけど、自分がそんなことできると断言できるのも怖い。
できる人は偉いけど。(午前4時半、閃かないな♪)
キレイごとを押し付けるのも怖れがあるけどというので、キレイごとを押し付けようとする人は怖れがない薄っぺらさを感じる。
いや、押し付けられたことないけど。
極限状態に置かれた人の気持ちを理解できるのは、置かれたことのある人だけかな?
同じ陰惨な経験をしたもの同士でないと慰めがないのか。
ないとしか言いようがないか。なんか不条理を経験すると、不条理を受け入れるしかない、落ち着きが出て、雰囲気良くなるような(カリスマる)気もするけど(根拠なし)
NHKのファミリーヒストリーでも72時間でも、普通に思える人でも、能天気に生きていると思える人でも、ドラマがない人はない。
日々、不条理を経験するから、他人にも優しくなれることもあるのか、苦労は卑しくするだけなのか。
不条理に会う前から不条理に備えることはできない。
会ってからの悲惨さの想像は、事前の想像を超えるから不条理なわけで。
私にできることは、私なりに不条理に会った人を支えるだけ、どこまで身を切るか、の問題でしかない。
いぎたない自分を受け入れるのであれば、いぎたない他人も認めるしかなくて、まあ、あんまりだと「遠くで幸せになってね」カード切るという思いもあれば甘く見積もることもできる。
あと、不条理を受け入れるかどうか、すぐに飲み込めれるわけないし、少し離れて、落ち着くまでの時間は待たないとだめだと思うで、某氏は厳しいなあとは思った。
不条理を受け入れられなくても、他人の問題は他人の問題で、その人の人生でつらそうに思っても僕は代わってあげることはできない。
僕はそばにいるよってことだけが大事で。
ときれいごとを書くが、不条理に荒れた人と会ったことがないというか、荒れたところを見せるほど親しい人はいないというか。
と、この悲惨な状況を変えれると思うには、人生に対する信頼がいるって書いたような、大江が書いた人間に対する信頼とたぶん近似値だな。希望を持つということは?
ん〜他人との付き合い方が選べるものだと思っている点は、最恐だなと自覚がないではない。