判断する(考える)の反対は信じることか?

個人であることの歴史は自己決定の歴史かもで、責任の問題は、法律の概念の問題かもで、しかし真面目に本を読んでいたら5年ものっぽい気が。



無知の知の「正しい」態度って何だろう?

全体が描けない複雑社会で、シロートが正しく判断するとはどういうことか?

科学が風評に負けたことになる。これはまさに国辱だ。

ミソがついた、とか縁起とか気にしたりするのか、自分は?改めて問いなすとよく分からない。

3回続いて幽霊が出たと売りに出されて家を安くても買うのかというと買わないだろうし、と、

でも、瑕疵がないとそれなりのお値段がするときに、どうしても欲しいものだったらどこまで我慢できるかというか、

気分的な安心を言うのも分かるが、お値段高すぎならどこで手を打つかというか、

何と何を比較して判断するのか?

父はバブルで株で、100万以上すったそうだが、僕はアベノミクス前に投信をはじめて、トランプがやばそうな気がして結果が出る前に清算した。

それからダウ最高値更新しているわけです。

某氏は、トランプ当選後に落ち着いたらさっさと清算して、相場上昇まで待てなかったことを悔いるセリフを書いていたが、僕は、まあ惜しいと言えば惜しいが、別にかまわない。

悪い事態とよい事態に確率を考え、我慢できそうな点を考えて行動する。

取れそうなリスクを考える。

今は相場が高めなので、崩れたらまた買おうと思っている。

しかし、今後アメリカが世界経済が、最高値を再び更新することになるのかは未知数でしかない。

それでも、今までだと下がってもまた上がるし、例外がどこまで生じそうか、結局、賭けなんで、捨ててもいい金だけで遊ぶことになるっつーか、

未来は未知でしかないっつーか、正しく未知を計って行動するとはどういうことか。

豊洲の9回目の調査について、妥当性をいろいろ言っていて、しろーと風情の考えに専門家らしき人が突っ込みを入れていたりもする。

しかし、私の立場からは本当に正しいかどうかわからない。

私は内田のたっつんとかちきりんとかしろーと考えで書き散らすのを嫌う人が嫌いだ。

私も今はその二人をまめに追いかけるのはやめてはいるが、しろーとが専門家にどういう態度を取るべきか考えている。

社会の仕事が細分化しすぎて、全てにおいて知ることは不可能である。

で、専門家にぶん投げて、お上の言うことは正しいですというのがいいのか?

というのは、銀英伝ヒルデさんがワインのことなど専門家に任せておけばよいのだ的に言っていたような?確かに事実ではある。

えーと、昨日から宮台真司のBLOGS見とるんやが、全体性が見え無しである。

で、宮台せんせは、311の時大ヒンシュクやったのだが、もっともらしさが判断できないときに根拠のはっきりしない情報を流しまくっていたこと。

握りつぶすと信用性の問題は有って、パンピーが触れることのできない情報源を持っていたら、流すしかなかったんかのうではある。

でも、デマを流すと余計怖いやんというと、自身が行動の指針にするつもりの情報だけ流すか?

情報のスクリーニング、キュレーション。

正しく黙ることは必要だと思う。

内田のたっつんもちきりんも専門家ではなくて、自分がこう考えたっつーのは有りで、でも専門家?に批判されて、

橋本治は有名じゃないからなのか、突っ込まれはあまり見ないんだよなー

私はこう考えた、は有り、で、もちろん私はある人から見れば批判されるだろう。

(今の)真理から言って正しくないという非難はどこまで妥当性があるんだろう。

科学は現在では正しさで判断で下される。

ノーベル賞だって癌の発生、ウサギの耳にコールタール塗って発生した正しい理屈ではなくて、今から見ると間違った理屈の人に贈られたりして(?)

というか、キュレーションが偏っている、間違っていた、根本において、というのは有り得るのだろうか?

全てにおいて専門家は有り得ない。

しかし、私が生活するということにおいて、完全情報でなくても判断を下さないといけない。

そこそこ、間違いがなさそうという話という伝聞である。

伝聞にしても根拠はある。その根拠はまあ、今までの私の知識では正しそうな気がする。

と言ったら、太陽が地球を回っているのでなくて、地球が太陽を回っている証明なんて、みんなが言っているからにすぎないけど。


余談ですが、私は、コンピューターが人間の使う概念の本質をつかむことができない、のに興味がある。

コンピューターは概念の例を何テラも突っ込まないと正しく判断できないが、人間は数例で判断できる(のか?)

人間の認識のくせと、コンピューターの認識のくせが異なる。

会話したと思っても、結果は同じであっても、錯覚でなんか頭の中の原理は別、でも、人間から見たら支障はない?

(例厚めにした方がよかとですかね、証明略すけど)

原因はいい加減で結果だけ一緒。

例って難しいねというか、数学の問題の場合、正しい証明の仕方はたくさんある。

しかし、リアルでは、というか、農業の場合、変数がいっぱいありすぎる。

日本のハウスの温度管理は、世界で日本だけの特殊なものらしいです。

韓国も日本と同じだったけど、改めたとかの、世界標準名オランダ式?

でも、オランダ式と日本式と、比較したけどやっぱり日本式のほうが収量多かったって話も聞くんだよなー

というか、それぞれ理屈があって、もっともらしく聞こえるけど、温度だけオランダにしてもいけないというか、湿度とか土地による光の強さとか、水量とか土質とかで、条件が違うんだろうで、

もっとも、収量が大きくなる要素が、他で収量が少なる要素に引っ張られ、結果が良くならなかった、というのはありそうである。

でも、人から見るとよく分からない。

渡辺さんはAで収量が良くなる、Bで収量が悪くなる、Cで良くなる、と思って、結果はWになるとする。

田神さんはAで収量が悪くなる、         Cで収量が良くなる、Eで良くなる、と思って、結果はWになったとする。

渡辺さんからするとAは過ちである。結果が同じWになったとして、その原因が違うので田神さんは否定すべきなんだろうか?

(うーん書くのがめんどいので証明略しているのだが厳密に書かないとダメかな?)

というか、人が専門家になれないとしたら、Ⅰは正しく、Ⅱは正しく、Ⅲは過ちで、正しい部分が多い人、過ちの部分が多い人、にしかならない。

人の言うことはポジショントークとして見るべきだろうな。(?)渡辺さんが言うなら、4割ぐらいの確率で当たる、ぐらいの判断基準か。

というか、口災だが、結婚できない人は、10割同じ人、というか、同意できる部分多めなのを求めすぎているような、今の自分で完成しているので、+を目指しても幸せにはなれないだろというか、次回のネタ的ではあるが。

××の点で間違っていると言って、正しさを主張しても、読む私からしたら××が間違っているという、その知識はないので、彼が言っているのなら、そうとしておくか(仮定)で判断を下すしかない。

××で間違っているので、西村さんは嫌いかと言っても〇〇で同意できるのなら、同床異夢でも、同意できるところで力を合わせて、
数の力を発揮するのが政治だと思う、のが、ネットでは見にくいよなー

仮に西村さんの意見に正しさも分からず同意するのならば、西村さんのもっともらしい意見のフィクションの論理を私が納得したということである。

フィクションはフィクションでもこういう意見があったということを知ることは、私の持つ問題のKである点に応用できないか、と膨らませることができる。

(私の思考の型はこればっかりなんだけど(泣))

別に現実では正しくないからと言って、全否定する気はないのよね。エンタメです。

エンタメとして楽しめる娯楽性があるかどうか、は問題で、正しさを判定する人は判定する人で必要だけど、私はその人じゃないよね。

専門外の世界は専門の人が突っ込んで、でも正しさの判定もしようがない。

私が専門外の事に当事者になるのなら、お金を出すのなら、勉強もしたりはするけど、一般人は意見を拝聴するだけ、というのもな。

(3日かけて書き散らしたら論旨混線しまくりで最初のお題からずれた、分からない、という保留態度について、次回に続く)