罪と罰

う〜自分もやっと、20世紀の思想に近づいたかの〜21世紀はまだ遠いの〜ってな感じで、続きも考えたんだがって、極東ブログを見たらおもろかった。
タウリン女子高生の毒殺事件で

迂遠な表現で包まないなら、それは、無価値な存在に死を与えることになんの問題があるのだろう?という奇妙な自意識である。この意識は常人から遠いものでないのは、ダウンタウン浜田雅功が「死ねばいいのに」というギャグで覆っている笑いのなかにあることからもわかる。他者という存在の奇妙な欠落はまさにドスエフスキーが「罪と罰」で罪と呼んだものに近い。末人たちはみなラスコリニコフになったし、それをいくばくかブログが増幅させているのだろう。(略)

私は子供のころ、生まれ変われるなら植物になりたいと感じたことがある。いや、私の場合は、自分という存在が植物の転生だと感じていた。
 もちろん、植物の転生が人の世を生きられるわけもないがそれは私のつまらない人生という私だけの物語である。私は強く他者を必要としなかった。そういうタイプの人間は世の中に少なくはない。ひっそりと植物のように生きて死ぬことをもってよしとするのだ。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/11/post_42ce.html

罪と罰、中二の時の10分休みに読んで、ハマったと思ったけど、チャイムが鳴ってそれっきりであった。

続き読んでみようかと言うか、「強く他者を必要としない」って言っちゃうのか。自分もそうなんだろうか。

「ひっそりと植物のように生きて死ぬことをもってよしとするのだ。」スポットライトに当たることのない人間という自分にルサンチマンがないわけでもないが、まあ本読んでりゃ時間も潰れるし。

というか、兄弟にスポットライト浴びまくりじゃんと言われた、すいません、オメーの議題を潰して私がしゃべることも多いような、親の愛情とりまくりである。

お昼は秋津が作るんだよー(年末最後の更新になるかな?、

(追記)

そこに描かれた大人たる結実は、高畑が描いた自然的な伝統性でもなく、また、おそらく、そうした親和としての「愛」でも、「友愛」でもない。
 昨今、鳩山政権の奇妙な影響で「友愛」という言葉が、100年近い眠りから覚めた亡霊のように日本でまた一人歩きするようになったが、この「友愛(fraternity)」というのは、市民の連携の原理であり、市民とは、話を端折っていえば、親子の情や伝統社会の情を断ち切った孤独を抱える個人の上になりたつものだ。ドラッカーの父が子のピーターにフリーメーソンの会員であることを明しはしないような断絶でもある。だから、私は冗談めかしてであるが、「市民とは鬼畜」と言うことがある。親子の情や自然の情を、自身の孤独で突き破ってから連帯を求める人々は、伝統社会からは鬼畜のようにしか見えない。それが市民というものであり、そうした市民に、大人が成熟するには、幼い子供の心の傷に真正面から向き合って、ごまかさずに生きることしかないと思う。そうした「友愛」というもの生成を本書の次のような指摘で思う。(略)
人は偽善からは逃れられない。逃がしてくれないのは、子供のときの深刻な痛みだし、痛みを捨てて幸せなシュラムッフェンなることを押し止めてくれるのは、幼い痛みを引き受けてくれた何者かだろう。人はおそらくその「はてしない物語」(参照)を生きなくてはならない、子供であることを捨てずに。
 ただし…。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/02/post-243d.html

はてしない物語かー中学生の時に呼んだは呼んだが、記憶を失ってぼろぼろになるところしか覚えていないな。ぽっちとな。