生きる意味(4)

仕事で疲れてーもうブログを続けるのも長くないかなとは思いつつ、なんとなく、生きる意味というかニヒリズムについて、なんか出てくるかな?

ニーチェ、読んでみたいけど読まないので深まらないけど。


生きる意味が社会的な成功、というならばほとんどの人にとって関係がない。

会社を辞めても、代わりはいるか?

その人がかけがえのない人であるか。

むぅ、私にとっては仕事でその位置になっていないのでよく分からない。

ペトロニウスさんが、仕事で頼られるようになっても虚しくなる、と書いていたような書いていないような、よく分からない。

社会、と一括りにできるものなのか。

小さな集団に所属しつつ、全てのことに関係を持つことはありえない。

かっこよくいえば、ローマ的なのか読んでないけど、現場と指揮系統の分離というか、現場に詳しくなれば、ある集団にコミットすれば、一日24時間しかないし、他の集団には疎くなる気がする。

世間的に影響がある集団に所属すれば(というのがサラリーマンの発想かな)少ない椅子に座ることができるようになったら、代えのない人材になったといえるのか。

希少価値があるということが社会的に成功した、イコールではないけど。

自分が必要とされている、自分の技能が必要とされているのか、自分が必要とされるのは何だろう。

必要とされる自分とは何だろう。

何が評価されて嬉しいのか。

できること、やりたいこと、しなければならないことの重なる部分は少ない。

と考えて、私はやっぱりやらなければならないことをできていないので考えが深まらないな。

で、この話をどう転がしたいかというと、家族ができれば、自分が大きい影響を与える集団ができるってことだと思うのです。

生きる意味が与えられる。

で、2010年代、身を粉にしてもしょうがない。半径1メートルで満足しようとなると、社会で代えのない人材になるのと、家庭で代えの利かない人材どちらを選ぶのか、後者の方が偉い気がする。

(結婚って難しくなったしね)

影響力の有無でいって変わりなかったとして、退職するとただの人で鬱になる。

死んだとき、弔ってくれる人がいるか、泣いてくれる人がいるのかが重要なのか。

人って(と話を大きくする)、無駄話ができる場が必要なのか、仕事で装うことができずにダメ出しを食らっている身としては、人格を作ることに疲れることがあって、必要とされることと、したい事の解離は辛いのであるか。

子どもためなら何を犠牲にできるのか。犠牲にする私、犠牲にしたあとに残る私とは何なんだろう。

ユウタロスさんは、死ぬ直前に見る思い出は買えない、とあったような、

ユウタロス Ver.1.3.4 ‏@bishop_ring
「自分の思い通りに好きなことを好きなようにやりたい人にとっては結婚というシステムはクソだと思う。」
結婚と自分の欲について - K Diary http://xkxaxkx.hatenablog.com/entry/2015/06/22/130000
逆に言うと欲しいものもやりたいことも大してなくなっちゃった人には結婚は最高のシステムだよね

自分のしたい事を追求する、それは生きる意味といえるのか、言えるんだろう、

人権センターの冊子を見ていたら、障害をもっていて就職したけど、ないものとあつかわれるのが嫌で辞めることを決意したとあったのだが、最初から人間扱いされない場合は健常者であっても多く、東ティモール南アフリカ、ひどい状況はありふれていて、ひっくり返しの努力が必要なのでは、とも思ったのだが、

やりたいことがあったら、全て手に入れることのできる恵まれた人生は滅多になく、何かを手に入れようと思ったら何かを捨てなければならない。

死ぬ前の思い出となると、死ぬときになってみないと分からないので何とも言えにゃーのであるがっと、楽しようとしてはいけない、我に七難八苦を与えたまえって、やっぱり耐えれる人は少ないわけで、さてはて、やりたいこと優先ってどうなのか。

自分の大事にしていたものが無価値になる瞬間、それでいうと、人類の歴史が刻まれる、人真似をしていたら安全牌なんだろう。

なんとなく、神谷美恵子のことを思いつつ、人と違うことをするのは怖いっすね。