言語と思考

誰が読んでいるんだ編だよーん。


言語として考える前に、手を動かそうとする神経が動いている、とかあったような、私はそれが分かる。

ふにょふにょ形のないものに、思考が形を与えるわけであって、ふにょふにょした言葉にならない意思があるのが分かる。

ただ、ふにょふにょは薬を飲んでいたら、結構、断崖絶壁で意識できないものだし、ふにょふにょだけでは複雑に考えることも出来ないのは事実だ。

「アイデアがパターンからずれるとき、というか言語の区別というか、言語で作られる概念が、パターンからずれるとき、」と前回考えていて、

どうして、ふにょふにょが言語の区別ではなくして、言語で作られる概念の話にずれたのか、ボーと考えていて、

たぶん、私は新しい概念に言葉で名付ける根性はない。

今ある言葉の組み合わせで、新しい概念を説明しようとするけどってゆーか、

結局、言葉ってのは誰かに意思疎通をするためにあるわけなんだな。

自分でこのなんとも言えないふにょふにょを名づけたとしても、微妙な差でいくつもいくつも言葉を作るのか(うんざり)。

差を作ったとして、その差の違いがまた他の表現する何かの差につながらないといけないわけで。

喜び50%、悲しさ30%、歯がゆさ20%の気持ちのパラメーターを多少イジって、喜び30%、悲しさ60%、うっとおしさ10%の気持ちの差を表現しようとして、それで何が違うのかと言われても。

言葉を作るってことは、別の言語体系を作るってことなのかなーと考えつつ、時間があったので縮小更新編でした。


[追記]
全てを記憶できる人は、言語を使えるのか?という問題意識から遠く離れました。

喜び50%云々の微細な差に名付けるかどうかっていうと

英語は1万2千語分かったら、新聞の92%の言葉は分かる、だったっけな。

人間が意識できるというか使いこなせる言葉の数の限界というか、人間はだいたい言葉を覚えるその概念の取捨の仕方は似通っているのかな。

(もちろん、通じたと思っているだけで、通じていないのでは問題はあるけど)

差を名付けるというより、何を捨てるのか、概念のくくり方ってところに言葉の不思議があるのではないか、という結論にしたかったのですが。