いつ幸せであるのか、選べたら?
アマゾンで遊んでー、パソコンから離れがたいので、書き書き。
結果と過程、どちらを優先して人生を組み立てるかといえば、私は過程派である。
大学の卒論で結果を求めて、潰れた経験もあるので、自分のベストを尽くせたら、それでしゃーない。
自分に関与できないことで悩んでも仕方がなく、結果は変えることの出来ないものに属する(ラインホールド・ニーバーの言葉が好き)。
で、いつの時点で幸せだったらあきらめが付くのか、とポヨポヨ飛んだ。
結構、死ぬ間際とかいうかもだけど、えーやん、後悔でいっぱいの人生もそれなりに人間て感じやん。
今10ドルもらうのと明日に100ドルもらうのとどっちを選ぶのかと言われて、将来の約束は反故にされる可能性もあるし、今の10ドルだろ。
将来的のことなんて、分かんないし、今を楽しめればいーのだ。
というと、大きな目標が立てづらいか。
小さな歩みが大きな結果となるベイビーステップってえーな、と思う。
マンキュー経済学を見ていて、需要曲線は、嗜好と予測と買い手の数で決まると有った。
幸せも予測と、嗜好は当てはまるな。
子鹿物語で、最後、主人公の少年が、1年前、草で作った水車はワクワクするものであったのに、今となっては、ただの草と水、(あれ、置いたと思ったところに本がなかったぞ。いいかんげん)で、過去の幸せは現在の幸せとは別ものになることもある。
嗜好の変化を予測することは不可能であって、未来の嗜好を現在で判別するのは無理で、現在は現在なりに幸せを追求するしかない。
では、現在からみて過去の幸せは肯定されるべきであるのか。
全く、心配事がないっつーのは、
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を見たら、結構、他の人への負担もありそうな気がするのだが、ってそれいうなら先進国の人間はにこやかではいられないが、その無知の幸せはあとから思い返して美しく彩られるのか?
極論か。
たまたま、家族幸せに要られた時間もあっただろうし、と言うか、橋本治いわく、幼児期の美しい思い出があれば、その後は何とか踏ん張れる、か?
いつ幸せだったらえーのか。幸せだったと思えたら、まあ幻想だったとしても、その後は無茶苦茶でも思い返す過去があったら、いいんやないか?
世間は厳しいけんど。
話の方向性を変えて、幸せいっぱいの時は、案外幸せに気づかないこともある、と聞いて、妥当性を考えた。
世に不幸の種はいくらでも転がっていて、少しの心配事もないことはなく、いつも何か取り越し苦労をしたりするしな。
目標が達成されても、その達成状態を維持するのは難しく、次の問題が起こるし。
とすれば、不満のない状態はなく、生きてさえいれば、幸せか。
希望=理不尽な人生で楽しみを見つけると書いたこともあったけど。http://d.hatena.ne.jp/akizu/20150217/p1
死ぬより辛いことはあるんだろうか。
自分の幸せより優先すべき価値があるもの。
自分の幸せがないと、集団に尊厳を預けがちだとは聞いたような聞かないような。
永遠の0、積読中でござるが、私は恵まれた幼少時を過ごしたので、これから何があってもしゃーないか、とは思えるんだけど、いや、あれから班長とほとんど顔を合わせていなから多少復活しただけなんだけど、白龍くんからすると、理不尽な世の中で、与えられた中で、これから幸せを追求しようとは思わないのか。
国を奪って、どういう国を作りたいか青写真も書けなくては
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にもなっちゃうと思うんだけどなー
まだ15?の子か。
幸せなんて主観で、☓☓できなければ不幸になるなんて、パラメーターが一つだけのものなんだろうか。
幸せだったと思えるか、主観であるから本人の納得だけで、飢えが生じるのはどうしてか。
ないものねだりなんだろうか。
あの人はたまたま持っていて、自分はたまたま持っていない。
運命は確かに選べなく、しかし、自分にどうもできないことは悩むだけ無駄で、与えられた枠の中で全力をつくすしかないと思うんだけどなー
自分に金がなかったばかりにアメリカで手術を受けさせることが出来なかったとか、重いが、私、小学生の時に盲腸しているので、江戸時代なら成人できなかったというか、
選択肢があるから、かえって辛いことはあるかな。
人間が死すべき運命を嘆くのに、共感は得られるか、どうしようもないことに対する免疫というか諦めというか、納得はできるのか、しかし動かしようのない物理法則は考えても状況は変わらない。
状況を変えようとするから、人類が発展したのか、不条理はひっくり返されるためにあるともいえるかもしれない。
一つの課題の達成は、次なる課題の前振りに過ぎなくて、果てのないことのどこに手打ちが出来るのか、どこまでが幸せで不幸せか、主観なわけで、欲望には果てがなく、本人が幸せならそれでいいし、不幸せに見えるから救ってやるというのも傲慢で。
(あ、欲望をどこまで肯定すべきかで資本主義につながったというか、不幸せを受け入れるレッスンというのはどこでなされるのだろう)