私の欲望

ペトロニウスさんの「比較級」で生きない(要約)(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140613/p1)という方が「自分のモノサシを持つ」より上手い言い方かな。

というわけで、一般的でない欲望の育て方について考える。


その前にっとid:finalventさんのcakes連載(https://cakes.mu/posts/9025)、今回は噛み砕いて書いたなというか、これも何回も読み返すことになりそうである。

「赤頭巾ちゃん、気をつけて」も読まねばなるまいだし、「自由な世界」を体現できるのは、庄司薫だけでもないようにも思って、果たして私はどうかというか、遠いか?

橋本治は否定的だったんだけど、ちゃんと庄司の世界は成り立っていたのか?

で、話を本題に戻して、極東ブログhttp://finalvent.cocolog-nifty.com/

「娘」の意味は、自分が愛した娘というだけではなく、青春つまり愛の蹉跌をReマスターさせるすべての意味であり、それは夢を譲ることでもある。「つらいことを半分に……」と笑うキートンに泣ける。

はぁ、子ども。欲しいのかな。作れないのなら、原因は自分にあると彼女は言っているというか、私は自分の可能性を手放すことに未練がある。

もう私も30も半ばというか、だんだん自分の芽は出ないことが分かってきて、でも道を譲るのには抵抗がある

好きなことをしていたい。人のために生きるのには抵抗が。

で、私の欲望とは何か。

極東ブログ竹田青嗣の書評があって、(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/07/post-efa8.html)、

一般欲望とは、ごく単純な例でいえば、おカネと美貌(イケ面)であるとしていいだろう。おカネの比喩はわかりやすい。誰もがそれを価値だと思う欲望を喚起する。よって一般的な欲望となる。おカネの、社会的な一般的な価値性を支えているのは、人々の一般欲望である。
 一般欲望を考える上で、竹田氏は、欲望自体の本質を到来性として見ている点が基礎になる。欲望とは、自己の外部からやってきて、「お前はこれに欲望しているのだ」と告知するものとして本質が捉えられる。

資本主義社会は必然的にそういう一般欲望を育てるのだけど、この欲望はあくまで競争の中で生じるものなので、この一般欲望を満たすことができる人は二割ぐらいの人間だということです。七、八割の人は、自然にそういう欲望を育て、そして失敗するようになっている。
(略)
それが競争の中で実現される欲望である以上、そこで「幸福」をつかむことのできる人は必然的にごくわずかで、ほとんどの人は挫折し、絶望し、自分の一生を肯定できないで終わるほかはないとも言いました。そこで、ここで大事なのが、あの「自分の意志をもつこと」ではないかと、私は思います。

 竹田氏はこの難問に対して、欲望というものは自己ルールを介して成立するのだから、自己ルールを作り直すことで、それが克服できる可能性を示している。

自己の欲望のルールを書き直すこととして

特に、自己ルールを作り直す上で重要なのは、(1)自分の言葉をたくわえること、(2)フェアな友人関係を形成して批評し合うこと、としている。それは竹田氏の結果的な人生経験にもよるのだろう。

ペトロニウスさんは

1)-2)と4)って、目的が変われば、すぐ変わってしまいます。そして上記で書いたように、目的なんてすぐ変わります。環境変化で。本当の自分もありません(笑)。それらは、長期的に考え続ける課題であって、答えはありません。精確に言うと、答えは、考え続ける過程にあるのです。

なので、ようは、日常生活において、自分が何かを変化させている、改善させている、そしてそれが自分の設定した目的の方向に収束しているという実感がある人は、人生を前向きに生きていることになります。

自分が幸せでない理由を考えて、解決方法を実践して行くのに手ごたえがあると楽しい的だそうだ。

対して、私は
自分のモノサシを持つ生き方をしたいけど、それだけでも寂しいので他人の要求に応える場も必須と一番甘いかな。

竹田青嗣の言うところの自己ルールは既にあって、ただ自分が規定したのではないルールに従わなくてはいけない可能性におびえている。

その欲望は欲望でその場に放り込まれたのなら、嬉々としているんだろうけど。

で、友達って他人の承認も欲しいということではないのかな。

広く他人の承認を得るのではなく、狭い人とだけ、というと、共同体問題がどこかに行くか。小さな共同体もありうる?

宇野常弘に言わせると、所属共同体をいくつも持つなのかな?

とか、竹田青嗣の本、一度読んでいたんだけど、どこかに行って、もう一回買う価値はありそうだな。

人とかかわり合うことなく、生きるのも辛いが、さて、自分の欲望として、どの程度の関わりにしておくべきなのか。

ペトロニウスさんは欲望の変化込、変化の手応えって楽しいね的な試行錯誤は大ありだと思って、竹田青嗣と同じ俎上に載せるには、前提で仲間がいるのか、結果的にペトロニウスさんは友達ができたわけですけど

いや、なんとなく、自分のモノサシを持つことについて、フォローしている人がいろいろ書いているので、一記事にまとめてみたかっただけです。

「自由な世界」。実はその前に人の名が来るのだが、その重みは
私も若いし共有できなかったので略した。私の尊敬する人も関係するが、「自由な世界」と反対の世界を考えると、自分のモノサシを持つ記事とは関係ないですけど、

比較級の世界を抜ければ、生きやすくなるとくくればありかな。

人の価値観ではなく自分で価値を決める。でもって、人から見たらどうでもいい自分の人生を肯定する。

そして、それと同時にぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちも自由にのびやかに豊かにするものだということだった。
https://cakes.mu/posts/8945

やっぱり他人が絡むのか?