自分の分を思い知らされる

11月23日の高知新聞の読書欄では竹田青嗣が寄稿していた。

吉本隆明共同幻想論が題で

戦後日本の思想家たちは、ほとんどの場合、先進国で話題になった思潮や理論をいち早く輸入し、これをアレンジして新思想として提供するという役割を担ってきた。(略)(秋津補足、しかし)

共同幻想論」の独創的なスタイルは、まさしくこの、「必要な理論のすべてを一から独力で打ち立てる」という徹底した態度からしか理解できないものだ。

小林秀雄が情によって倫理を構築しようとしたのかしていないのか、そんなことを考えたのだとしたら、無から構築したことになってすげすぎる、と思う。

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人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。道徳の問題を考えるに際し、良心の問題を除外し得ても、良心とは問題ではなく、事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問わず、彼の心のうちに止まるであろう。例えば、あの男はスパイだと聞いて、私達は何故一種の嫌悪の情を覚えるのだろうか。スパイのうちにも正義の士があって、弁解するだろう。「社会の正義の為なら、嘘もつこう、仮面もかぶろう。(中略)」何やらおかしい、何かが間違っている。人間は、彼のようには生きられる筈はあるまい。(中略)感情の呟く言葉は、その種の不明瞭な言葉には相違なかろうが、良心の言葉とはそういうものなのではあるまいか。

 良心ははっきりと命令もしないし、強制もしない。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである。彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の「実情」というものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なものを、敢て、「はかなく女々しき」ものと呼んだのだか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生きられず、組織化され、社会された力となる事ができないからだ。社会の通念の力と結び、男らしい正義面などできなからだ。(中略)

 だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ。それも、悩むとは、自己を審くものは自分だという厄介な意識そのものだから。公然と悩む事が出来る者は、偽善者だけであろう。(後略)
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050217/1108645103「考えるヒント」よりfinalventの日記