ネットの可能性

一昨日は、好き勝手な生き方をして、世間的には価値のない物を追求したとして、それでも生きていくには、集団としてまとまったら、力になるのではないか、という結論に辿り着いて、

んー何か引っかかる、と思って頭の中を検索すると、

物語三昧のガッチャマンクラウズだ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131015/p1

ペトロニウスさんは脱英雄譚の文脈で使っていて、少し文意はずれるかと思ったんだけど、

集団と言ったときに、一人の個人を犠牲にする文脈もあるときに、ネットは一人一人と直接つながって、利を与える、と言ったら言い過ぎになるんだろうけど、WEB民主主義2.0の可能性か。

入社した時から、論壇系の本は宮台先生以外切っているし、私のネットの観測範囲外なのでなんともいえないのだが、あれを直接聞いたときは、って、物語三昧に、

プロフェッショナルな判断は、プロにしかできない。たとえば、医者を考えてみよう。また日銀の総裁でもいい。人の命や世界の命運を握り人の判断は、専門的な知識と、それの長期の訓練、また巨大な組織のバックアップなどがなければ、なしえません。また、その巨大な判断の担保するために、彼がその権力を行使す上での、選出のプロセスが非常に重視されます。首相の決定も、どんなに陳腐でも、彼が選挙で選出されたからなしえるわけです。


しかし、大衆には、そんな能力も選出のプロセスもありません。なので、彼らには権力の行使の権利が与えられません。そんなのいちいち与えていると、世界が混乱するし、なによりも、衆愚ということで研究されていますが、基本的に民衆に権力をばらまくと国はすぐ壊れます。ギリシア古典の歴史からドイツのヒットラーまで、衆愚政治の果ての独裁者のプロセスは、すでに理論的に証明されているといってもいいくらい、自明のことです。


けれど、、、このXのシステムは、善意をクラウド的なシステムによって、最適配分する、最適判断するバックアップが巨大コンピュターとソフトウェア、ネットワークでできるのではないか?と考えているわけです。これは、現代ネット社会の希望の最前線ですが、ようは、衆愚になるのは、適切で使える形に情報の最適配分、判断をするのが、そもそも無理なんで、共和制的な一部のプロフェッショナルな人間にマクロは運営させるのが正しいというのが、人類の大きな流れです。

私はプロとして大衆は信頼できるのか、という観点だったけど、見事、解決策を断言されてしまった(少し引用外の部分からも判断して)。

ありなのか?

finalventさんは結構、絶望されているようなのだが、(https://note.mu/finalvent/n/n53280cec5b45?magazine_key=m95210ca03306

迷惑メールをグーグルのフィルタをくぐらせたらだいぶマシになったとのことで、アーキテクチャ(?)か、善意を拾うアーキテクチャの可能性はあるのだろうか。

この制度を設計するというところに悪意が潜むこと自体は否定できません



また、悪貨が良貨を駆逐するように個別に悪意が善意が上回るような突発の熱狂をどう管理するか?



さらには、アダムスミスが、『国富論』のあとの『道徳感情論』で描いたような、市場の制度設計にビルトインされている人間像の思想そのものを、どこから調達するのか?(=教育しかありえないんですがね・・・・)

物語三昧も絶対射程が追いつくことはないだろうというブログですね。