ある集団が成立する条件

「何をもって人間とするか」は私はやっぱり日本教に染まっているので、

「何をもって意思疎通できると考えるのか」「信用できる条件はどうなのか」とか

やっぱり敵がないとまとまらないのか、と考えた時に味方と考える(か敵とは考えない条件)は

って、敵がいなくてもみんな仲間と思えるのかは世界統一国家の条件を考えればいいのかな。

差からアイデンティティを形成するのではなく、では何をもって集団の統制をはかるのか

人権が西洋の思想であるのならば、社会、はどうなのだろう。

10年前に社会と共同体は違う、みたくお勉強したが。


とりあえず、ということで、言葉にしてみると、それがあるべきコミュニティの機能だからではないか。

 国家というイデオロギーを巻き込む政治の文脈で追悼が置かれることと、地域という生活空間の大量死への追悼は意味合いが違うように思う。

 今回の自然災害で、そのコミュニティを追悼できる立場に私はないとも思うし、私の立場があるとすれば日本の市民ということだけだ。いったん国家を迂回する。

 それでも、どこかで上手に国家を迂回させずに、コミュニティ間で追悼のような共感を繋げて、新しい市民生活の空間を形成する原理の構築は可能なのではないか。そう考えている。そうした追悼の共感は、新しいコミュニティの倫理的な基盤にもなるように思える。

極東ブログ
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社会でもない共同体でもない、コミュニティという言葉を使われたのだな

なんか、finalventさん吹っ切れているな、なのであるが、他人とどう関わっていくのか、友愛的なものは私の課題でもある。
 
友愛なしで、生きるということは楽しいのか、ありうるのか。

友愛を分け与える限界とは(と言葉を紡ぐ私の限界)