自分が狭量になるとき
基本、自分はポストモダンな時代に幼少時代を生きているので、どっちも有りだ、で結論が出ない。
当事者でもないのに意見を言うのをためらうというか。
けど、たまにブログを書いていて、(あさはかな)批判もしたりする。
思い出すだけで、勝間和代さんにもっと社会科学系の学術書(?)も読んだらどうかとか
妖狐×僕SSの主人公は努力もしていないのに凹むなとか、
「家族八景」が古いとか、、、いや、覚えているぐらい批判する時は心がとがめるのだが傾向あるかな。
ただはっきり分かっていることがあって、自分は決めつけられると切れるんだわ。
こうじゃないといけないと、自分での思い込みはあるくせに、人に普通こうだろ、みたいなことを言われると内心カチンとくる。
いや、なんのことを言っているかというと、極東ブログ「心のボットネットについて」(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/05/post-3a18.html)で少し考えた。
自分は特につながる集団はないと思うが、つながっていたいという願望はある。
発狂トリガーはあるのだろうか。
妖狐×僕SSのアニメ感想を見ていて、えっ、みんな主人公かわいいの?みたいな驚きはあったので、努力しないやつには厳しいかもしれないな〜
ひょっとして自分は自己責任で厳しい人だったとか(←自覚がないところがまた怖い)
つながりいかんではなくて、集団に属するために、集団内の位置を考え自分の意見を言えないことはあるけど。
(仕事場では、顧客満足よりまず他の所のメンツを立てること、みたいな不文律(男ならば当然か)に従っている。いや、本当のところはよく暴走しかけて注意されるんだけど)
う〜んちょっと違うかな。
好意で情報拡散に手を貸したり、正義を背負って相手を批判すること。
例えば迷惑メールなんかで朝鮮人蔑視が書かれているけど、これを社会人が言うと一発アウトだろ、とか思うので、(障害者批判とか)、そんなことをいう人に対しては理由いかんを聞かず、陰であの人あんなこと言ってたぜ〜と噂して、名誉を棄損しようとするので、素朴な正義回路を持っているんだろうな。
これが朝鮮人蔑視、障害者批判とか社会通念にのっとっていないと思うからであって、そこに第二次世界大戦時なら鬼畜米英と代入して違和感がない。
贅沢は敵だ〜と言いかねたいというか。
集団内での位置を確保したいために、輪をかけてひどいこと言っちゃうんだろうな、みたいなのが想像できる。
結論はないのだが、贅沢は敵だとみんなが言う中、反論できる人は日本人にどれだけいるのだろう。
勝間さんが自分のことを自画自賛するので好きではないという人がいるけど、勝間さんが成功している(ために努力した)のは事実だし、自画自賛する人を批判する回路を持っているのは、謙譲を美徳とする日本人回路にのっとていないから的で私は好きではないのよね。
あ、人の批判になってしまったが、(またあとで凹もう)、自分も人を潰そうとする回路を持っていることを自覚して、あまり発動させないように気をつけますです。