意識は傍観者である
意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)
- 作者: デイヴィッド・イーグルマン,大田 直子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/04/06
- メディア: 単行本
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被験者の頭に電極を付けて、指を動かそうという衝動を感じた瞬間の針の位置を報告してもらうと、脳波は報告の4分の1秒前に生じ始めた。
つまり、本人が衝動を意識的に経験するより早く、脳の一部は意思決定をしていた。
そのほか例を挙げて、自由意思は存在するかもしれないが、たとえ存在してもそれが存在する余地はほとんどないのだ。
脳腫瘍などのせいにより、犯罪を起こしたり、小児愛に目覚めたりすることもある。
脳に測定可能な問題があれば、それは被告人への情状酌量に値する。しかし、現在の技術ではわからない脳の問題で犯罪を起こしている場合も考えられるものの、生物学的な問題を検出するための技術がなければ、私たちはやはり人を非難する。
有責性が現在の技術で決まるというのは筋が通らない。私が言いたいのは、どんな場合も犯罪者は、他の行動をとることができなかったものとして扱われるべきである。
で、私たちは処罰を放棄するのではなく、処罰の方法を改めるのだ。現在、衝動を弱める方法が開発中だそうである。
犯罪者は善悪の区別はつく。罰のことも考えるが、衝動が抑えきれない(人が多い?)という内容の参考資料の題名が挙げられている。
そういう人たちに脳科学的に再犯を犯させない罰にするべきにしたらどうかというのが提案である。
しかし、犯罪者が全員が衝動に弱い、とするには私には抵抗がある。
著者だって、犯罪を犯す時に罰のことを考えないと挙げているように、罰を考えて罪を犯さない人だって多そうである。
罰にはそういう人に対する見せしめの意味もあると思うのだが、脳科学的に正しい処置が罰になると、抑止力がなくなるのではないかと思うのである。
それと、新しい刑罰を主張するには、今までの刑罰といい面、悪い面を比較しなければいけないのに、今までの刑罰に触れられていないので、新しい罰のいい面ばかりが強調され、印章論ぽく、説得力がない。
加えて、してはいけないことを(理性で)判断することができて、衝動を抑えることができる。
してはいけない犯罪は時と場所、教育次第で変わりそうで、その反対衝動を抑えることができるのなら、為政者においしく、SF的に開けてはいけない箱のような気もするが、そっちの方面に筆が進まないのは、技術がいまだ開発途中でSFチックに夢物語なのを悟らせないせいかとも思った。
なにがともあれ、補助的な刑罰として著者の提案は魅力的だ。もっとも、日本も刑務所でしか暮らせない障碍者、老人の話も聞き、制度的な問題も忘れてはいけないんだろうけど。