逃げない生き方

危機的な状況に置かれたとき、逃げるのか、周囲を助けるために留まって死ぬか。

自分の命より使命や責任を優先させる態度は、素朴なナショナリズムに繋がるのではないか。(よく分からないけど)

津波テンデンコは肯定されるとして、絶対逃げなければ死ぬという状況でしか許されないのか。

絶対死ぬという状況の判断は人によって違うし、死ぬとはっきり分かる段階で逃げ出しても手遅れだ。
命を永らえたいのなら、どうともわからない状況で、人から何をしているのかわからないという目で見られながら、だろう。

放射線を恐れて千葉から西日本に逃げてきた人、死ぬ死ぬレーダーが敏感にできている人がいたとして、鈍感な人は、踏みとどまれなかったことをどう評価すべきか。

著者は、逃げなければならない場合もあることは認めるが、ほとんどの人たちは、それまで自分が長年生活してきた場所を離れることを望まない。

逃げると共通感覚が失われ、自分の居場所がないという感覚が生まれることになる。

逃げることによる代償は、周囲の信頼を失う。自分の安全だけを優先し、究極的には周囲を見捨てるのではないかと思われてしまう。

「災害ユートピア」という本ではサンフランシスコの地震、ニューヨークの同時多発テロ、ニュ−オリンズでの大洪水などの例を挙げ、これらはハリウッドで作られる映画とは異なり、相互扶助の精神が働かされることが書かれている。

震災が起ころうが、起こるまいと、人の生き方の根本が変化するわけではない。
逃げることなくそれに立ち向かい、苦難を乗り越えていく以外、選択肢は用意されていない。
と書かれ、正論の力強さは感じるのだが、正論は一面反論を許さない残酷な面もある。

(↑山本周五郎を読んでいて、反対意見の目配りに感動した後だから特に感じる)

自分の命より周囲の命を優先させることは、第一章「生き抜くことから逃げない」からすると、周囲からつまはじきにされようと、他者を守るために、命を犠牲にすることを厭わない「死ぬ覚悟」より「生き抜く覚悟」を認めている点(ようでいて、結論がはっきりしない気もするが)から否定され、逃げることの弊害が周囲との関係からしか測れていない点から、この本の結論は、恥をかくぐらいで逃げて気が済むのならそれでいい、でもよかった気がする。

逃げる、逃げないは、安楽死は許されるべきか、自分の命は自分だけのものかと問われて、家族が悲しむから認められないという意見もある中で、自分の命と周囲との関係のどちらを優先すべきかという問題の新しい切り口かとちょっと期待したので、著者の意見はリベラリズムとの論争(興味があるけど難しいので著者がやさしく解題してくれたらと期待した)がないコミュニタリアニズムに落ち着いているようで、がっかりした。

銀河英雄伝説で「思想とは生きるための方便だ」的なことを言い放ったキャラがいたのだが、「周囲との関係は生きるための方便」に過ぎないのか、「生きる目的」なのか、ちょっと気になる。

人によって違うことを認めることが生きやすい社会なんだと思うけど、極論として自分はどちらの側に立つのか考える材料は欲しい。

[日記的メモ]
書き直し版。かっこよくリライトとタグをつけようか迷ったが、分かりやすく分かりやすく☆

全力で書くとこうなる。

全力で書いてこの程度かってゆーなよ。

(自分的には恥ずかしくて見直せれない)

「意識は傍観者である」も書き直し甲斐があるな。うふふのふ。

何事も練習練習♪