人間失格?「罪」を犯した少年と社会をつなぐ

この弁護団の活動を公平な見地から冷静に追った東海テレビのドキュメンタリー番組「光市母子殺害事件の光と影」は、ギャラクシー賞を受賞するなどのちに高い評価を得ましたが、当初は番組の制作を企画したディレクターも、「そんな冷たい人だとは思わなかった」と家族から非難されたそうです。

光市母子殺人事件ではドラえもんで生き返りがどうのという弁護団どうよというのは知っていたのだが、加害者が父親から暴力を振るわれていて、同じく暴力を振るわれていて強い結びつきがあったと思われる母親の自殺を最初に発見したのは加害者だというのは知っていたような知らなかったような。

結構、加害者がそれこそモンスターに思っていたので、報道に流されてしまっていたのだろう。

少年が(人が)犯罪を犯すとき、個人的な素質もあるが、社会的側面もある。

その社会的側面が最近思いを寄せられることが少なくなった、とはこの本も指摘するところだ。

非行少年の排除のない社会、というか一度犯罪を犯した者がもう一度、娑婆でまともに暮らせる社会は、異質な他人同士がつながりを持てる社会である。

非行少年を排除する社会は、要するに同質なもの同士で集まっているが、排除されないように同質であることを求められる、空気を読むことを強制させられる社会である。

実のところ、マイノリティであることを隠して生活している私は秘密がばれることを恐れる気持ちがある。

別にばれたって気にしていないと言いつつ、同調圧力は結構強めに感じていて、異質な他人であっても受け入れられる社会という綺麗なお題目を見て、そうであればよいのにと涙腺うるうるであった。

ま、うちの貸家の住人に精神障害を疑われる昼間からうろうろしている無職の人がいるのであるのであるが、もう75を超えたと思われる母親が死んでその人だけが住人になって、部屋が汚部屋になられてもヤダな〜と勝手に憂鬱なのである。

(ちなみにひと家、住人の手入れ不足で廃屋になっている。責任どう追及すりゃいいのさ)

とここまで考えて、ルールがしっかり守られる信頼があれば、いいのか。

アメリカのごとく、日本が訴訟社会になってもヤダな。と思うし、極端なアメリカではないが、移民社会のフランスの事例とかイギリスの事例、同化政策とかどうなっているのか知りたいな。

国家への忠誠の誓い方がポイントのような気もする。

それはともかく、勝間和代森達也の対談(デキビジをちらっと見た)でも思ったんだけど、

なんちゅーか日本のマスコミを見ていると正義ッてな感は、おいらの周りはとくに雅子様バッシングとかないし、

マスコミの言うことなんて一部を拡大しているだけだと思っていたんだけど、

確かにマスコミの言うことと違う考えの表明は、気心の知れている人しか言わないし、

反対意見を言っただけで叩かれる雰囲気をなんとなく読み取ってしまう。

偽科学とかを攻撃する人も、そりゃ、偽科学はどうかと思うんだけど、その意見をとりあえずちょっと聞いてみて判断しようという気配がないもんな。

私はとりあえず気に入った人がいると、その人がこの人はちょっと、、、と指摘した人はとりあえず読んでみて、その人が正しいのか、反対者が正しいのかジャッジしてみようとはしているが、

悪魔の弁護人だったっけか、多数者の反対意見、珍奇な意見を言う人を攻撃するのでなく、生暖かく、共存できる社会は息がしやすい社会だと思う。

珍奇な人も協力し合える領域があるということが分かる仕組みはどういったものだろう。

スウェーデンの中学の教科書には書かれていそうなことなのだが、日本人が異質な他人と仲良くする経験を積む仕組み、、、ムズイ。