重い障害を生きるということ

重い障害を生きるということ (岩波新書)

重い障害を生きるということ (岩波新書)

重い障碍児は意志が全く見られず、しゃべれず、動くこともままならない。

寝ているだけだが、四肢が曲がって寝ていることでさえ、苦しそうにうめくことがあるらしい。

日本社会は障碍児のことをマスキングしているとは思ったが、実態は想像以上であった。

障碍児施設で働く著者が政府に対する不満をぶちまけていないのが救いであった。

かつての対応、戦後のほったらかし政策は、この政府ならやるだろうなという想像の範囲内ではあったが。


大脳の機能が全く働いていない子の例がいくつか出てくるが、それでも気持ちよさそうにしているとか、笑った(と介護者が思う)事例がある。

著者が夜勤の時、障碍児の絵を書いていると、大きな物音がすると、10分ぐらい顔が歪んでいるのが分かったそうだ。

何の音か判断するのが分からないから恐怖的に驚いたのではないだろうかと推測している。

重い障碍児はほとんど外部に対して刺激がないと判断されているが、一緒に生活すると、当然だが生きているということが分かってくるみたいだ。



24時間の施設に預けられた障碍児は、しかし、姥捨て山のようにならずに、毎日見舞う人の例が出てきて救われる。

著者は姥捨て山になることをちらりとも匂わせていないのだが、これはあえて書かなかったのか、実態はみんな子どものことを考えるのか。


障碍児、障碍児と書いたが、20歳以上になっても症状は続くわけで、成人の扱いを法律に書かれてもらえるかどうか攻防があった。


1987年、施設建て替えのために琵琶湖1周250キロを25万人の手でつないだイベントがあった。

障碍児のことがこれだけの人の関心事になれたことは日本国民として、日本国民のことが嫌いにならずに済んでほっとする。

こういう本を読むと自分がのほほんと関係ないところで生きている気がして恥ずかしいのだが、使われた税金の一部は私の給料だと思っておこう。

使わなかった年賀状の寄付とか身近にあったら喜んでするんだけどさ。