「反核」異論
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 深夜叢書社
- 発売日: 1983/02
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自分の試行錯誤で政治がどう変わるか分からない、ので、分からないことに手を出さないに興味ない。
上からの押し付けでイヤ〜な目にあったことがないのが大きな要因だと思うが←一応正社員だし、レールに乗った
ところで、「結婚帝国」「父親再生」を読んでからいい暴力があるのか、ということについて考えている。
息子は暴力をふるった父親を幼少時は憎みながら、長ずるということを聞かない母親が悪いと父親と共犯的になるそうだ。
女に暴力をふるうのはよくないというルールを仕込まれていないと、ま、そうなるのもわからないではない。
いうことを聞かない他人に対して、暴力をふるうのはありか、なしか。
というのは、自分に加害的な人に暴力で対抗するのはありか、という問題と密接に関係する気がした。
他人から見て、自分の利益の及ぶ範囲の拡大解釈のし過ぎだと思うことでも、本人は自分の当然のテリトリーを侵されて怒っていると正当性を持っている場合も当然ありだと思う。
暴力の正当性を訴えるのはありか、なしか。
当然あり。実際的にはすべての暴力(戦争?)には正当性があるだろうし。
で、正当な暴力があると考えた瞬間に、女に暴力をふるう回路が理解できる気がする。
女を弱いものと考えず、自分のプライドを傷つける加害者と考えたのなら。
正当な暴力と不当な暴力の差は一体どこで作られらるのだろう。
絶対的な基準はなさそうだし(植民地時代の正義は今の不正義)、基準が壊れていたら全部正当化される気がするが、暴力絶対反対なんて絵空事を真顔では言えない。
この本は日本で「反核」署名が千数百万人分集まった時代の話だ。
吉本は文学者たち三百数十人分の署名を見て、ブーたれているのである。
この反核の物語はソ連発で、アメリカの核兵器を批判しているがソ連批判はない。
ソ連がポーランド侵攻をごまかすために企画したことではないか、と。
そんなのに文学者が嬉々として乗るし。
核戦争反対のお題目に反対する奴なんぞいない。誰からも非難されない場所で、、、うんぬん。
対談で、吉本と気の合う相手のほうが「正論」という言葉を使っているのだが、ざっと探して、吉本は使っていない気がするんだよな。
その辺ちょっとムズイ感じがするし、この批判を今の時代に当てはめて考えると、って無知な私では図式の応用ができんっす。
絵空事を真顔で言うべきでないと思いつつ、絵空事が言えない世間もつまらん。
しかし、それを大多数が言うのも興ざめ。
思えば、絵空事をマスコミが政治の流れとは別に言い募る時代って変なもんだったのだな。
今も30年先から見たら、現実とは別事を言い募って騒いでいるんだろうか。
[追記]
核は道具で道具の使いようは政治の問題、という言葉が頭の中で回る。
なんか考えるヒントがありそうで、また数年後に読み直しても面白そうだ。