当事者でないと語れない

当事者でないと語れないのか、とか、(今時)知識人とかの存在について考えちゃったわけだが。

http://d.hatena.ne.jp/akizu/20100805/p2)は当事者であることから始まる言論だけど。

挨拶ぐらいならしていますけど。←ちょっとホッとしている

生活圏の話なら関係ないことない人はいないし、それなりの発言権がみんなにある。

行動に見合った言論を、というのはある意味当然で、でも、行動が伴わない言論は全てダメだというのも杓子定義で、知識人の存在を少し考える。

理想の生活に対する発言権はなしか、みたいなのもあるし、もちろん理想が現実と遊離しすぎてもこわいが。

ただ、発言に対し、他人に影響力を持とうとするなら(説得力)、今までの実績が大きくものを言う。

マスコミとかウェブの情報ってその点で、実績基準作れないから、その点怖いし、だからみんな好き勝手言えて、面白い。

と、ここまで書いて、私は本当に生活者としての視点がないんだな。と思った。

地域の現状を知らないから、地域をどうしていきたいのかの視点もないし、ひっかかりがない。

みんな幸せだといいなと漠然と思うだけ(←危険)

(追記)
宮台真司が「市民性」というキーワードを言っていた。

webちくま(http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/fujiwara_miyadai/index2.html