宗教のつまみ食いが当然でないとき

徳川時代をさぐってみると、そこには「宗教は薬なり]と言う定義があることに気付く。(中略)

梅山は、良医が巧みに処方するように、儒釈道も老子荘子もすべてうまく調合しなければいけない、それには何一つ捨てるものはないと説いている。

だがこの話を聞くと、外国のキリスト教徒もユダヤ教徒も、あぜんとしてしばらく声が出ないのが普通なのである。 (中略)

そしてその調合の方法は神道が二、仏教が一、儒教が一の割合であるという。
             静かなる細き声(山本七平

私は自分の常識が非常識で通るときもあるということを知る瞬間が一番好きです。

たしかに私はいい言葉は宗教と意識せず吸収しようとしています。それが当然でない場所もあるのか。

宗教のつまみ食いができるのは無宗教だから?でも、ある文化集団が良いと思って吸収する言葉が同じだったら、受け入れられる共通パターンがあるってことである。

それが他の集団から見て共通の宗教性があると見える場合もある?

日本教はある文化集団の慣習は、他の文化集団からは根拠が無いので宗教的に見える、宗教みたいなもんである、と捉えていたのだが、もうちょい深い意味があるかな。

宗教を丸ごと信じることは、人の言っていることを今の自分に納得できないのに信じることである。

それはデメリットしかないと思っていたが、外国では丸ごと受け入れているのならば、長所もあるかもしれない。

長所があるとすればどのようなものか気になるので、日本教の本を追っかけてみようか。

日本教では江戸時代、仏教、儒教キリスト教など4つの宗教に入信し、次々と捨てた不干斎ハビアンのことを書いていたと思うが、釈先生もハビアンから日本人の宗教受容の原型を探る本を書いたそうで、そっちと比較するのも楽しそうである。