自分の物差し

ましろのおと

ましろのおと(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

ましろのおと(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

しばらく、ラーメン屋で月刊マガジンを読むぐらいしかしていないので、追いかけているとは言いがたいんだけど、ジーと考えている問題がある。

主人公の音楽は「通向けで、私は好きなんだけど」で終わるものだと書かれていたような、それって悪いことなのかなー

とめはねっ!

でも、字の美しさが評価されていて、こっちも7巻ぐらいで読むのが止まっているんだけど、人が評価する美しさってなんだろう。

私の人生を引き受けること、と、自分の物差しを持つことは結構、関係ありそうな気がする。

他人が憧れるような自分ではなく、他人が蔑むような自分でいかに自尊心を持つか。

と僕は書いた。

自分なりの美しさ、まで気高く生きられないにしても、自分の人生に納得感を出すときに、自分の物差しと他人の評価をどう合致させるべきか。

どっちかと言われたら、自分のを優先させるべきだろうけど、自分の枠を広げるためには工夫が必要である。

富野監督が自分の好き勝手作ると質が落ちる、と書かれたような、妥協、することで広がる可能性もある。

彼女と音楽を聞いていると、あーこの系統好きだなというのと、自分は余り好きでない系統だな、というのがあって、いくつかの系統で、似たような感じで微妙に異なるグループを作っているのが分かる。

微妙に、同じ人でも、少し毛色が違うと、んーだめだ、となるし、この曲だけは神、みたいのもある。

少しの違いに力入れとるんやろう。少しの違いで、神曲とつまんねー曲が変わって、
あれ、話がずれた。

少しの違いというやつは琴線に触れる奴とスルーする奴がいて、まあ、私の好きな曲があなたが嫌いだからといって、私の好きな曲が悪いわけではない。好み。

広く浅く、狭く深く、広く深く人の心を捉えるのが理想なんだけど、多様性があるってことがいいんじゃなかろうか。

ってありきたりだな。

問題は食えるか否かで表現を変えるべきか、であろうし、アマチュアの強みでもあるだろう。

しかし、他人の評価を全く気にしなかったら、自分の持ちパターンは限られる。

評価を気にしないのなら、それでもありだろう。人の言うことなんざ気にしても仕方がない。

でも、傍から見たら、そう頑なにならなくても、と残念にも思うのだが、余計なお世話であろう。


私は小学生の頃いじめられたので、他人が私にちょっかいを掛けないのであれば、それ以上は望まない。こっちに近づくな。自分で自足が楽しいと思いたいのである。

finaventさんの連載をジワ〜と考えつつ、

この世界には確固たる原理性も価値も存在していない、そう思わなければ、自我としての自分が生きていけない。このため、人々はそれぞれの幻想をこの世界に投げかけて戦っている。そういう思想を広めたいのである。

岡田斗司夫が評価社会だと言って、そこまでは他人に関心を持てない私であるが、

思想は通常、それがどのように難しい形態を取っていても、内面の思考と外面の表明の間に差違を持ち、そこに矛盾を抱えている。およそ自身の内面に何か思索の対象を見い出すこと自体が、数学や物理学の課題が与えられるということとは異なる。

 この矛盾の原点を素朴な形で取り出すなら、「思想とは生きづらさの問題に暫定的な答えを与えること」になる。だが、その答えを出してもなお、問題は終わらない。矛盾は深まる。しかも外面的な思想の表明は、内面の思考の原点にあった、生きづらさをもたす元凶である共同体や社会への違和感への空しい叫びになる。なぜなのか。思想として自身の生きづらさに与えた解答は常に嘘であり、自分が自分を騙しているだけにすぎないからだ。

 思想をする人はその不安をいつも抱えている。そして自分が生み出したはずの思想がその人自身の人生を蝕み始めるのは、ふと不安な情感に駆られ、自分の思索全体を俯瞰したとき、それが自己欺瞞の構造をしていることに気がついて狂気に駆られることだ。思索を自己欺瞞のプロセスとして嫌悪感のなかで受け取ることは苦しみを伴う。
https://cakes.mu/posts/7297

いや、私は可能性として、こうも考えられるのではないか、とぼーとするのが好きなのであって、と言いたいのだが、

仕事でのストレス、現在体に出ているので、抑圧もキツイんだろうな、生きづらいとは全く思っていないんだけど。

ちょっち、ベントさんの連載を頭の隅においている。他人の評価と自分の物差しの接点に差はある。

絶対自分の思い通りにはならない分野があるから、自分の思い通りにしたい分野もある。

思い通りになってばかりだと、腐る。ニートは辛い。

私はボーとするばかりでは世界に入り込んでしまうのでダメである。世界との接点、というのをまた別記事で広げますです。


(追記)

なんとなくパソコンの前で遊んでいる。

人間はカネにならんことを一生懸命やっている限り堕落しないと私は信じているのだ。


しかし、このカネにならない仕事を長期間継続することは、相当の決心と持続力がいる。問題は「餓え」より安易につきたがる心情だろう。


私は常に楽観的なのだ。いずれ人びとはそれに気づき、自らを少しでも貧しくするため、「金にならないことは何でも」一心に行い、それで心の空白を満たすようになるだろうと思う。それは根拠なきことではない。江戸時代にはそういう人はいくらでもいたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081029/1225239715

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山本七平からの引用である。私、この本持っていないのよね。

自分の物差し的にこれはありか。土佐錦魚の美しさを競う、とか、無駄だけど、文化。