不干斎ハビアン

私は、人の話の何を信じて、何を受け入れらないのか。

山本七平は、日本人は宗教を薬と思って、都合の良い部分だけを抜き出し、ある部分は受け入れない、と書いていた。

私はそれを当然だと思うし、そうでない状況がイマイチ想像できない。

釈さんのこの本は宗教と薬の関係に触れ、また、私が「獣の奏者」で疑問に思った、長い間、ある考えを無害に伝えるにはどうしたらよいのか、の一形態としての宗教も論ずる。

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者 (新潮選書)

不干斎ハビアン1565年生まれ?仏教、儒教道教神道キリスト教を比較し論じた「妙貞問答」を記す。

キリスト教徒であったが、棄教する。

戦後もさまざまな人物が彼のことを取り上げている。

私は山本七平経由である。

山本七平批判を読んでみたくて釈さんの本を手に取った。

釈さんは、さまざまな人物のハビアン像を批判していく。

山本のハビアン=日本教の原型説にはハビアンが日本の宗教で大切な祖先崇拝の念が薄いことをあげ違うのではないか、むしろ、日本人に限らず「現代人の宗教性」のある典型に近接しているとする。

「宗教教団の信者になったりする気はないが、宗教性を渇望する」[さまざまな宗教を自分にとって必要な情報を抽出して個人的に構築する」点をアメリカ人の宗教学者ロバート・ベーラーは「宗教的個人主義」あるいは「個人宗教」と呼び、日本人だけの傾向ではない。

つまり、ハビアンは古今東西のあるタイプの人格である。ドーン!

ま、釈さんが海外滞在の経験があるのなら認めるにはやぶかさではないが、と保留しておこう。


ただ、宗教体系から自分の都合の良い部分だけを活用するのは、各教団宗教体系は反社会的反人道的方向へ突っ走らないように体系や教義の随所にストッパーやリミッターがかかっている。つまみ食いは危険、と。

獣の奏者」のエリンは体系から切り離されていて、体系を作ろうという発想はなかった。

私はこれがすっげー日本的ではないかと思ったのだが。

最後、王獣飼育の知識は解放されたのだっけ、抹消されたのだっけ?

言い方は悪いけど、釈さんの意見を汲むとと選ばれた人だけに伝えるというのが無難だったのだはないかと結論が出た。


最後の章で岸本英夫、井上円了など面白そうな人物が紹介されていた。10年後チェックしようっと。

最後の章は、なぜキリスト教でなくてはいけなかったのか、なぜ仏教でなくてはいけなかったのかという疑問があり、宗教者にとってのハビアン像の結論がまた書かれているのだが、なかなか実感がこもっているように思われた。