自己肯定感

治やん曰く、やりすぎるときは「なんらかの不安状態」にある、そうである。

私は、始めから選択肢がある、なしで、選択肢へのこだわり度が違う(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20141101/p4)と書こうとしていたんだが、これはツリーでいうと治やん理論の下だな。

選択肢へのこだわりでもう一本書きたいが、それは忘れないように記録しておくとして、週刊現代のサイトで、二村ヒトシの対談があって

二村 何かを好きになること、何かに感動することで、他人に依存して心の穴を埋めてもらいたいと期待しなくなるのはいいよね。アニメを観るのでも、植物を育てるのでも、旅行に行くのでも、なんでもいい。自分の心の穴が満たされる一瞬を持つこと。それを他人に自慢したりマウンティングの材料にしないで、自分のものとして味わうこと。それは本質的な自己肯定感につながりますよ。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43657?page=3

やりすぎないには満たされていること、余裕が必要だとしたら、それは自己肯定感を持っていること、と言いかえることもできるか。

実はおいらさん、昨日、職場で最近言い訳していると指摘されました。

日頃なら山本七平菜根譚の教え、言い訳すんな、をモットーとしているけど、何か行動するたびに突込みが入る現況で、周囲の私への信頼度がマイナス入っている自覚があるので、ついついしちゃうんだよね。

追い詰められた時が本性だともいうかもだけど(泣)

今年から中間管理職になった人が、部下には負担もかけなければ成長しないと言っておりましたが、いつも満たされるて無理がある。

ん〜しかし自分が何とかできるって自己信頼を持つ方法が無きにしも非ずな感じもするが、親の愛情?

いや、いままでも困難を乗り越えてきた自信かな。


歯止め、の問題としては、スピリットサークルの主人公の暴走は、自己肯定感があれば止めれたかな、あるいは人間関係があれば、で、(あれ、この二つは微妙に違うし、また掘り下げたいか。そういえば宮台真司が脱社会的存在の歯止めとして親しい人と書いていたような?)

もう一つ、政治家のやりすぎない歯止めがなんであるか考えていたのである。

ウェーバー曰く、政治家は全ての倫理を超越する(なのか読んでない)。

牙狼の主人公の暴走ぽく、暴走しないには、全ての職業には、一つ、これだけは守らなければいけない職業倫理を絶対に覚えなければいけないのではないか、と電波が飛んできたのであるが、この論理は詰められるのかな?発酵するまで放置しておきます。


徒手空拳で、風が吹けば桶屋が儲かる理論、誰も読んでなくとも私が書きたいから書くんだよん編でした。

あと、近況をちょこっと書くと、昨日は朝から先輩に詰められて、車の中で泣く。

泣くの何度目だっけの情緒不安定ぶりだったけど、病気判定が気持ちよく出て、困っている農家さんの役に立つ、これは素晴らしいことだと午後には復活したはしたけど、この気持ちがずっと持つといいけど