欺瞞について
人生万事塞翁が馬なら、生きかたは趣味の問題だな。
欲望対応型の人生と、意志対応型の人生とはまた違う趣がある気がして、またまたボーと考えよう。
私は芯を持つ生き方について考えている。
小説が面白いのは、どっちに転んでも大切なものを失う選択を突きつけられた時である。
人生に優先順位をつけるとして、1番目を取るか、2番目と3番目のセットを取るか、としたとき、1番以外をすべて捨てる選択をする。
1番とは今の自分にとっての一番か、としたとき、やっぱりそれしかできなかった一番だけの人生というもので、選ぶことのできる考えがあるうちは欺瞞が生じやすい。
一人で他人(の価値)をいらないと断言して歪まないのは、他人が当たり前にいる環境だからなんだよね。
と書いて、なんとなく欺瞞が分かった。
目がいっちゃっている人ととかいるわけです。
自分が信じていないのに信じようとしている、とか、他の選択肢も考えてしかるべき時に思い込みで切り捨てたりするときに生じるのではないか。
それで言うと、一番だけを選ぶ人生というのは、一番の重みがよく分かる強烈な経験をしたとか、それとも、1番以外を選べない性格とか、選択肢の放棄に対して未練がないか、あったとしてもそれを認めて(ないものとしない)場合かな。
私の正直に生きる(自分に嘘をつかない)、とは、どっちをとるかの選択肢を突き詰められたことをあんまり感じたことがないので、机上の空論である。
でも、山本七平の菜根譚か、どっちにしておこうか、と迷った時の指針として日頃から自分の嘘とは何か、心の中を覗き込む時間を作ろうかと思わないでもなかったり。
いや、自分の心を覗き込んでも分からないな。世の中にどんな選択を突きつけられる場合があって知って、自分がどんな対応をするのかシミュレーションしてこそ。「戦争と平和」読んでみよっと。
[追記]
いやほら、私って考えながら書くものですから論理が一本にならないんです(汗)
で、一番の重みがよく分かっても2番目のありえた未来に未練を生じるというか、
無意識を抑圧するというか、欺瞞状態に陥らないほうが奇跡じゃね、みたく。