屍者の帝国

屍者の帝国

屍者の帝国

これは興味のある人には面白いんだろうな。

意識はなぜ生じるのか?

でも私は素朴な実存主義者らしいというか、違うのかもしれないけど、ある物はあるで深く突っ込んで考えない。

それは、死を深く考えないので、無になっても構わない(ま、独身だしね)と同質のもので、哲学者にはなれない程度のものだ。

普通の人に捕まらないものに捕まった人の人生は数奇なものになるだろうから、それは私の幸いというべきのものだろうからというか、それでも、この本で書かれていたことを風呂場で考えていたら、1時間がたっていて、お湯がぬるくなっていて、風邪ひくかもしれないというか、変なパワーはありました。


まず、この本は文と文の間が滑らかで、伊藤のものか円城のものかよく分からないが、読み易かった。

伊藤の構成の妙のせいというか、出だし、本の中の常識を読み手に伝える工夫が自然ですっと本の中に入っていけた。

アフガニスタンについての知識を聞こう」と主人公が聞かれて説明するのだが、知識を試されている、値踏みされている感が緊張感を醸しだし、説明のための説明になっていなかった。


意識の実態、Xに変なものを持ってくるのだが、Xは「魂」でも「意識」でも「欲望」でも構わないと書かれて、変なものが意識の実態であると言われると、魂などとXが同等であると言われると、確かにあまりかわらないのかなー

動いていると自分が思えればいいんですよ。

と開き直ると、「過程がわからなければ、結果に頼るしかなくなる。」という文章が頭の中で回るのである。

結果、この本の中で提出されるこの未知のXが意識の実態であると考えるには、この本で書かれた死者が動くといったことや、死者の復活が人間にしかできないことを結果として、受け入れたのなら、納得できるのか、未知のXが意識の実態であるという考えは、この本のファンタスティックな部分が起こらないリアルな世界でも成り立つことなのかな。

と、少し考え込むが、難しくてよく分からんとです。

偽の意識だろうが、真の意識だろうが私は気にしないし。


ただし、周りがすべて独我論者の世界と、そうでない世界と、世界の形は大きく異なるのだろうか。

独我論実存主義唯物論、と大学生のころから気になっているのだが、10年ほったらかした。

たぶん次の10年でも勉強することはないのだろうが、あと、25年、私に残されているのなら、その頃にはぼちぼちどんなものか知ってみたいネタだよな、と勉強したいことリストの後ろのほうに改めて書き加えられたのであった。